上映会を企画してくださった先輩に感謝です。
とても貴重な時間でした。
一尾先生と対話しながらの動画視聴。
自分だけで見るのではなく、ゼミ生と一緒に見ることで視点や考えが補われる。
「動画を見てザワつくところ、「いいな!」と思うところを大切にしてください」という一尾先生からのメッセージで、安心して意見が言える場。
素直に自分の観と向き合い、一尾先生の観に触れる。
運動会を見て考えたこと、感じたことなどつらつらと。
運動会の目的は何?
多くの学校現場では運動会を行うことそのものが目的化しているのではないでしょうか。
ツクルスクールの運動会は生徒発進での企画。
参加するもしないも自由。
目的は楽しむため(生徒曰く「アオハルじゃん?」)。
最初のラジオ体操からカオスな空間。
誰かが前に出てお手本を示しているわけではない。
うろ覚えでところどころ間違えるし、全然揃ってないし、やらない子もいるし。
でも、わからないにも関わらずやる不思議。
一尾先生曰く、「楽しいんでしょうね。みんなと同じことをやるんだけど違っている楽しさ」。
ラジオ体操を怪我予防のためとやらせるのが普通かと思いますが、カオスなラジオ体操で怪我人一人出ずに運動会は終了していました。
尻尾取りでは異年齢で体育館を走り回っている。
パワーバランスは大きな違いがある。
でも成り立っている。
勝敗も取った尻尾の数ではなく生き残った人。
なんだか曖昧。
高校での体育祭だったら勝敗の基準が曖昧なもんなら生徒からブーイングが飛び交う始末。
結果を求めているのではなく、行為そのものが楽しいから気にならないのか。
怪我は一切なし。
綱引きはなんだかほんわかしている。
全然殺伐としていない。
途中で靴が脱げてしまった子がいたら、ある子がさっと端によけてあげる。
大人が何も言わずとも、気がつく子がやる。
偶然裸足になり、裸足の方がグリップが効くことに気がつく。
何よりも競技時間が長い。
つまり力が拮抗している。
大人は一切手を出さず、子どもたちがチーム分けをしたそうですが、うまいことバランスが取れている。
子どもたちの「いい感じで変わってー」という言葉からもそれが伺えます。
何より見ている親御さんが爆笑している。
借り物(人)競争では説明が8分の協議時間が2分。
事前にルールは知らされていませんから、その場でルールが説明される。
ぱっと見は説明している方も聞いている方もグダグタ。
普通の先生なら説教が飛びそうな状況。
でもそれって、競技を時間内にスムーズに行うことが目的になっているからではないでしょうか。
説明している子たちはうまく伝わっていないのを感じ、自分お説明をどんどんブラッシュアップする。
大きな学びです。
聞いている方もルールを理解しない限り競技が始まらないので聞いているのかも。
リレーでもルール説明が長かった。
なんならルールが伝わりきれていなくて競技の途中でハプニングが起こりやり直しに。
これも普通の先生なら説教しそう。
驚きっだったのは、子どもが文句を言ったり、ネガティブな発言をしている様子が見られなかったことです(一人ひとりの言葉まで聞けていないので雰囲気からですが)。
これは何より、選択しているからなのだと思います。
やらされているものだと、スムーズに進行しなかった場合、ましてや、やり直しになった場合「だりぃ」「ふざけんなよ」「やる気なくなったわ」などの言葉が聞こえるような気がします。
でも、そんな雰囲気が全くない。
この表現が適切なのかは分かりませんが、見ていて、近所の空き地で子どもたちが集まって異年齢で遊んでいる感じ。
そのように考えた時。
地域の子どもが全員強制で集まるでしょうか?
遊びたくない遊びにも強制的に出るでしょうか?
遊ぶ前に準備体操するでしょうか?しなかったからといって怪我するでしょうか?
異年齢でパワーバランスが違かったからと言って遊びが成り立たないでしょうか?
怪我しそうな場面がわからない子どもが全員でしょうか?
例えば鬼ごっこで負けた時に、負けたからといって全く楽しくなかったでしょうか?
グループ分けは大人がやるでしょうか?
事前に競技種目やルールは説明されているでしょうか?
その場でのルール説明は常に理路整然でしょうか?
やりなおしが利かなかったでしょうか?
こんな疑問が出てきて当たり前が見つめ直されます。
これは何よりも、この運動会が生徒発進で、目的が楽しむためで、参加が自由であったことが大きな要因なのだと思います。
さて、運動会の目的は何?
その目的は本当に大事?
運動会だけでなく、日頃の子どもたちの学びを見たくなりました。