学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

静岡での学び

今日の午前は静岡市にある「静岡あたらしい学校」を見学に行きました。

  • 「対話を重視した小学校」という理念を実現したくて作った学校
  • 対話を通して自分で考えられる、自分の意見を言える人を育てたい
  • 枠の中での自由(自分・他者・環境を大切に)
  • 日々が循環する学び

理事長さんは、「自由」って何?ということに向き合わなければならないことはある種辛いことだとおっしゃていました。常に自分に向き合うことになるからです。

ビジターとしてきた子も「よっぽど公立の方が楽」と言うそうです。

なぜなら、自分で自分が学ぶことを考えて決めなければならないから。

学ぶことが用意されて、それをこなしていけば良いわけではないのです。

 

スタッフさんは他に足場がある人たちで、だからこそ「静岡あたらしい学校」を客観視できるのだそうです。

その中にいながら、外側から眺める目を獲得する。

そのためには、その中の自分だけでは足りないわけですね。

様々な場所で自分を作り、その自分から他の場所を眺めてみる。

平野啓一郎さんの「分人」の概念を思い出しました。

 

校舎は古民家で、庭では野菜を育てていました。

「循環する学び」を大切にしておられて、季節や旬と共に生きているのが素敵でした。

 

 

午後は藤枝の小学校を訪問させていただきました。

振り返ってみると、教員になってから小学校に訪問するのって初めてかもしれない。

とても懐かしい気持ちになりました。

 

『』の考え方をもとにした授業。

まず、子どもたちが「わからないよ〜!」と口々にいう姿が印象的でした。

それを普通に言える空間がすごい。

 

先生は「聞く」ということを大切にしておられるように見えました。

先生が聞く。だから子どもも聞く。

これは最近になってやっとできるようになってきたことだおっしゃっていました。

子どもの姿を見取り、忍耐強く。

「聞く」ことは「待つ」こと。

先生が「待つ」姿も印象的でしたが、子どもが「待つ」姿も印象的でした。

 

『』以前の話にもつながりました。

そもそも、授業の中で教師と子どもの関係性を構築できるか。そこが疎かになってはいないか。

僕は在り方とテクニックを別個で考えていましたが、考えてみれば授業の中で子どもと関係性を構築できるテクニックだって、その授業者の在り方の一部ですね。

だからなんらテクニックを身につけることに忌避感を覚える必要はない。

こんな当たり前のことがやっと腑に落ちました。

やはり頭が硬い。

 

授業からも、放課後の話し合いからも、先生が集団を大切にするのと同時に、それ以上に個を大事にしたいという気持ちがひしひしと伝わってきました。

以前オンラインでお話しした時に「一人ひとりの学びが成立しているか」という思いを見ることができたように思います。