学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

「成功する『学び合い』はここが違う!」

 この本は、『学び合い』をある程度継続して実践しているが、「『学び合い』ってなんだ?」となってきた人に是非読んでほしい一冊である。

 『学び合い』の疑問の一つに、「子ども同士が関わっていれば、それは『学び合い』か?(子ども同士が関わっていなければ、それは『学び合い』ではないのか?)」というものがある。僕もこの疑問を持っていた時があった。この疑問を持つと、『学び合い』の型にこだわるようになってしまう。

 この疑問は、『学び合い』を「行為」として捉えているからだと思う。そうではなく、『学び合い』は「状態」なのではないだろうか。片桐先生のエピソードに、一言も話さない朝の読書の話があったが、これも状態として捉えれば『学び合い』であることが腑に落ちる。

 本書では『学び合い』を「目標と学習と評価が一体化した授業」と定義している。これは『学び合い』の考え方を授業に落とし込んでいく際に指針となる。

 「目標と学習と評価の一体化」で大事なことは、目標の共有と目標に基づいたフィードバックである。この「目標と学習と評価の一体化」は授業だけでなく、学校生活全般にも当てはめることができる。目標は、教科学習においては「めあて」、学校生活全般においては「学級目標」となる。ここで真に大事なことは、「学級目標」を決めることではなく、決めた「学級目標」をもとにあらゆることをフィードバックすることである。でなければ、学級目標はただのお飾りになってしまう。

 フィードバックは、事象が起こったその瞬間に即座に行うことが重要だと思う。学級目標を決める模擬授業のエピソード(P .35)では、自分たちの学級目標が当選したグループに対して、即座にフィードバックしていた。このように、事象に対して即座にフィードバックを行うためには、常に学級目標を頭に置いておき、それを通して見取りを行う必要がある。学級目標とずれた事象が起こった時(または、学級目標に則った事象が起きた時)にフィードバックが行われなければ、「学級目標は重要ではない」というヒドゥン・カリキュラムを示してしまうことになるからだ。学級目標を機能させるためには、覚悟が必要なのだと思う。

 「目標と学習と評価の一体化」に則れば、「構成的か非構成的か」といった問題もクリアできる。目の前の生徒を見て、構成的にした方が不安なく課題を達成しやすいと見取ったのであれば、構成的にしたとしても何ら問題ない。僕自身大学院の授業において、知らない人しかいない状況ではある程度教師から強制的にペアやグループを指示された方が心理的負担は少なかった。

 大事なのは生徒一人ひとりが学びを実現していることであって、『学び合い』の型(「はい、どうぞ」や、教師が手を出さないこと)ではない。生徒がどういう姿になってほしいのかを明確に示し、それを生徒と共有し、フィードバックすることを指針として授業をデザインすれば、型にこだわることなく『学び合い』を継続する(変な言い方かもしれないが)ことができると思う。