学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

越後『学び合い』の会

 今日「越後『学び合い』の会」に参加した。発表もさせていただいた。拙い発表だったと思う。きてくれた方々、本当にありがとうございました。何かにお役に立てれば幸いです。

 国語で『学び合い』をやることに抵抗を感じる先生は少なくない。それはきっと「国語は答え(解釈)が一つに決めにくい」というものがあるのだと思う。それは確かにそうだ。だけど、一つに決まらないからこそ、お互いの違いを認め合える教科であるとも思う。文章を読むとは、そう読んでいる自分を読むことでもある。だから、読みを交流するとは、自己開示に他ならない。お互いの読みを厳しくもあたたかく認め合える集団をつくりたいなぁと思った。

 僕は、国語でこそ『学び合い』をするべきだと思う。読むことは自転車に乗ることと同じで、読まなければ読めるようにはならない。国語という教科は、読むことが基本であるけれど、実際に授業中に生徒が読む時間はどれくらいだろう。僕が高校時代に受けた授業では、かなり少なかったのではないかと思う。以前の僕の授業でも、生徒は読まなかった。僕の用意した答えを、口を開けて待っているだけだった。『学び合い』では、生徒はよく読む。というより、読まざるを得ないのだと思う。僕が解説しないから、否が応でも自分たちで読まなければならない。先生が解説してくれるうちは、自分で読まなくて済むのだ。

 今回発表して、自分自身が成長できたし、繋がりが増えた。『学び合い』は「一人も見捨てない」ことを大事にする。だから僕も、「見捨てられない」という安心感を持って臨むことができた。本当に、ありがとうございました。