学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

方法の衝突

昨日の『学び合い』フォーラムでのこと。

 

学習規律(例えば〈机の上に出していいも〉のや〈筆箱の位置などの決まり〉)とどう向き合うかが話題になった時に、僕はチャットに「思想のない規律を盲目的に信じている人とどう関わっていけばいいか?」的なことを書いた。

 

すると、ある先生が「そのような人にも背景があるはずです。TPチャートをやってみると、それぞれの先生が何を大切にしているかがわかりますよ。」とコメントをくださった。

 

はい。また同じ過ちを繰り返していました。自分の中で勝手に決めつけていました。

 

 

我々教員は、方法について衝突することが多いように思う。特に、小学校の先生は同僚の先生から授業などの方法について色々と言わることに悩んでいると聞いた。

 

方法について衝突してしまうのは、「正しい方法/正しくない方法」というような、二項対立な考えがあるからではないだろうか。

 

我々は持っている願いはそれほど変わらないはずである。それを実現する方法が人それぞれなだけだ。衝突してしまうのは、願いを共有できていないからだと思う。だから、表面的な方法だけをみて断じてしまう。

 

お互いの願いを共有した上で、「いろいろなやり方があっていいよね」と認め合える職場は素敵だなぁと思う。

もっとお互いの考え方を知る機会を持たなければならない。

 

もしも職員同士がこういう文化を築き上げられたら、生徒にも伝わるのではないだろうか。多様性を認め合える人間を育てたいならば、まずは我々が多様性を認め合わなければならない。