学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

自分語り

 僕が『学び合い』を学びはじめたきっかけは何かの拍子に本を読んだことだ。同僚に『学び合い』を知っている人はいなかった。

 僕が同僚の先生と『学び合い』の話をした時に、「すごい早く『学び合い』に納得しましたね。」とか「なんでそんなに『学び合い』に納得できるんですか。」と言われたことがある。自分でもそう思う。周りの人から見れば「信者」に見えるだろう。だけど僕は納得してしまったのだ。

 その理由はやはり講師時代の定時制にあるのだろう。僕がいた頃は、いわゆる「やんちゃな子」はほぼいなかった。どちらかというと人とうまく関われない子が多かった。彼ら/彼女らは教師に対して暴力を振るうことはなかったけれど、勉強に関心があるわけではなかった。

 彼ら/彼女らは実に多くの回数、授業中に臆面もなく携帯をいじり、Youtubeを視聴し、ゲームに興じていた(もちろん全員ではないが)。彼ら/彼女らの多くは家庭環境に闇を抱えており、時にボロボロの精神状態で学校に登校していた(つまり、勉強どころではない。)。彼ら/彼女らの多くは働いており、疲れた体で学校に登校していた(中には朝5時に起きて職場に向かう子もいた。それでいて欠席をしない。その子には絶対に勝てないと思って尊敬していた。)。

 そんな子たちを前にした時、教師がいかに何もできないかを思い知った。僕の授業を受けてくれる子に、感謝すると同時に申し訳なく思った。

 今勤務している高校は偏差値としてはかなり下の方だが、彼ら/彼女らは授業を聞く。授業中に携帯をいじらない。僕からしてみれば、それだけですごいことである。

 職場の中には学力の低さをバカにする教員もいる。「いっぺん定時制高校に行け。」と言いたくなる。二度とそんな戯言は吐けないだろう。自分の授業を聞いてくれていることが、いかにありがたく、申し訳ないかが分かるだろう。授業が成立している(と見える)のは、多くの場合、生徒が成立させてくれているのだ。

 『学び合い』は良くも悪くも、教師の限界を教えてくれる。そして、どうしたらいいかも教えてくれる。多くの教員が、理想としつつも心の中では無理だと考えている「一人も見捨てない」ということが、実現できることを教えてくれる。

 『学び合い』を知ってしまった今、「一人も見捨てない」ことが実現できると知ってしまった今、それを追い求めずにはいられない。

 

※どう見ても信者です。生暖かく横目に流してください(意味不明)。

※西川先生も定時制で教鞭をとられていたことを知って、勝手にシンパシーを感じています。すいません。