学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

言葉にできないこと

 森崎和江さんの「朝焼けの中で」という文章を読んだ。中学校の教科書に採択されているそうなのだが、今まで読んだことはなかった。はじめて読んだとき、詩と思いながら読んでいたが、実は随筆なのだそう。文章のジャンルというものは非常に曖昧なものだ。読み手、読む状況によって変わりうる。

 この文章は〈幼いころの「私」の回想〉→〈昔を振り返る現在の「私」〉という構造で書かれている。幼い頃(「八つか九つくらいの年ごろ」)の「私」が朝焼けを見て、それをなんとか書き留めようとするが、ふさわしい言葉が見つからない。そのとき「私」は言葉の貧しさ(「私」のというよりかは言葉自体の)と絶望を味わう。この体験を〈現在の「私」〉が振り返り、言語化できないことの難しさ、言語化されているものの貧しさ、まだ言語化されていないものへの愛しさに思いを馳せる。

 この文章は〈語る「私」〉と〈語られる「私」〉が描かれている。幼い頃の「私」(〈語られる「私」〉)は、当時のことを言葉にできなかった。それを現在の「私」(〈語る「私」〉)が言葉にする。ここがおもしろいと思った。朝焼けの体験を通して言葉の貧しさ、言葉にできないことの絶望を味わいながらも、その時の朝焼けの体験は心に深く刻まれた。そして今、「私」はあの時言葉にできなかった体験を言葉で語る。現在の「私」は当時の朝焼けを「光の舞踏」と表現している。当時は言葉にし得なかったであろう朝焼けを。「朝焼けの中で」には言葉にできないことに絶望しながらも、それでも言葉にしたいという相反する思いが描かれている。

 さて、この文章を使って授業するとしたらどうしようか。僕自身随筆を授業することは苦手であるが………。ああそうか。僕が「随筆」という観念を捨てればいいのかもしれない。文章だけを生徒に渡して、どう読むか。「随筆の読み方は〜」などとあまり固く考えすぎないほうが良いのかも。はじめて読んだ時の僕が、詩として読んだように。

 僕が漠然と生徒に考えてもらいたいと思ったことは、「言葉にできる/できない」とはどういうことか。「私」は「言葉にできない」ことを「絶望」と捉えているが、それは何故か。ということかな。自分自身が言葉にできなかった経験をもとに語ってくれると理想だ。ソシュールの言語観と繋げてみてもおもしろいか?

 

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