学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

書くこと

 今年度、僕は学年通信を作成する係になった。全部を僕が書くわけではなく、月ごとに担当の人がいるが、それでも何かしらは書かなければならない。正直めんどくさいなあと思った。僕は今でこそ国語の教師だが、昔は作文が大嫌いな生徒だったのだ。そしてそれは教師になっても変わっていなかった。文章を書くことは相変わらず苦手だった。

 しかし、今、毎日ブログを書いていて文章を書くことが楽しくなってきている。学年通信を書くことも全く苦でなくなった。これは、自分の中での大きな一つの変化である。ブログを始める前は、そんなに毎日書くことなど無いと思っていたが、探してみると何かしらあることに気がついた。その日に何か特筆すべき出来事がなくても、自分の中に書くことがあることに気がついた。書くことで自分を振り返り、掘り下げ、確かめることができている。

 書くことが楽しい理由の一つに、昔の(とは言っても僕は始めたばかりだから最近にはなるが)自分の文章を読むことがある。自分がそのとき何を考え、何に悩み、何に気をつけながら文章を書いていたかが文章からありありと思い出される。それは例えて言えば、自分部屋に飾ってあるトロフィーを眺めて、その当時を思い出すようなものだ(僕は何かしらでトロフィーを取ったことなど一度もないが)。文章はその時の自分が思考し尽くしたことに対するトロフィーなのだ。

 文章を書くこととは、混沌としてバラバラだった自分の思考を、一つの筋道を持った文章にに定着させる営みである。これは読むことと同じく自分自身を作ることに他ならない。あいまいな自分というものを、言語によって構築すると言ってもいい。

 将来、自分に子供ができたとき、自分のブログを見せようと最近妄想している。君の父親は昔こんなことを考えていたんだよ、と。それが何かしらの役に立つかもしれない。

 

思いついてしまったから書いておく

 頭の中のバラバラな思考(材料)を、一定の手続き(文法、論理の一貫性)によって、文章(ひとつのまとまり)にする。そして思考を言語化することは自分自身を構築すること。つまり私は錬金術を行なっているのだ。しかも人体錬成。持っていかれるのか?