学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

古典の授業

 上教大授業参加2回目。題材は国語総合の古文「検非違使忠明」。僕が使っている教科書は東京書籍なので、この教材は載っていない。

 今回話したことに「古典は得意だったか、苦手だったか、好きだったか、嫌いだったか?」「古典を教える意義は何か?」というものがあった。4人グループで話し合った結果、4人とも古典は苦手で嫌いだった。しかし、面白いことに「古典を教える意義」については何かしら出てくるのである。高校生時代に嫌いだった教科の意義を、教師になった今生徒たちに語る。自分は矛盾したことをしているなあと反省した。

 古典が苦手/嫌いだった理由に「文法ばかり覚えさせられた」というものがある。高校生の自分も文法でうんざりだったのだが、教師になった今は必死に生徒に文法を教えている。なぜならば、文法が理解できていないと読めないからだ。文法が理解できるとある程度読めるようになってくる。ある程度読めるようになってくると少しは面白くなってくる。文法の1番のネックは、文法を勉強する意義が事後的に理解される点だと思う。しかもそれにはかなりの苦労を伴い、時間もある程度かかる。多くの生徒はその途中で挫折してしまう。受験で使う以外の子はそっぽを向いてしまうだろう。

 教材そのもののことについても話し合いをした。僕が「検非違使忠明」を読んだ最初の感想は、「話はわかりやすいけど、あまり面白くない」だった。東京書籍では古文の導入教材に「児のそら寝」がある。こちらの方がオチがあって面白いと思った。「検非違使忠明」には清水寺の舞台から飛び降りるシーンがある。僕はここを読んだとき「そんなことありえねーよ」ぐらいにしか思わなかった。しかし、グループの先生の中に、ここのシーンに着目して課題を作成した先生がいた。その先生が授業されたときは、生徒はいかにして忠明が飛び降りることを可能にしたのかを話し合ったのだそうだ。色々な説が出て、それを立証するために本文をよく読まざるを得なくなり、本文をよく読むために単語の意味や文法を自分たちで調べたのだそうだ。

 毎回こんなに上手くできる自信はないが、教材をよく読ませる工夫を仕掛けることによって、文法を理解する必然性を作ることができるのではと思った。少なくともただ文法を学ばせるよりはましだろう。