学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

ゼミ振り返り

「クラスの特定の誰かの問題を解決するために『』をやるのは間違いですよね?」

→「そう」

 

愛着障害の本を読んだら、一対一の関係を作らないといけないと書いてあった。キーパーソンが必要だと。どうすればよいか」

→「どうやってキーパーソンを決めるの?多様な一対一があればいい」

 

「子ども時代に何かに熱中することは大事だと思うが、教科学習と比較してどちらが重要か」

→「それは人による。一つのことに熱中することがフィットしている子もいるし、教科学習をやることがフィットする子もいる。教科学習の中でも何に熱中するかは人による。一つの良い答えはない。その子が選べることが大事。教師ができるのは多様な選択肢や情報にアクセスできる環境整備すること」

 

「自分が現場時代に『』を実践して、孤立している子に話しかけに行く子が生まれたが、これは自分が言ったから仕方なく行ったのかと思ってしまう」

→「その子が自分にとって得だと腹落ちして行動しているか否か。得だと腹落ちしていれば、長期的に続く」

 

『』においては教師はその子、その事を解決しないことが大切である事が、ようやく理解できたように思います。

集団の問題を認識してしまうと、教師はそれを解決しようとしてしまう。

そして、その問題を解決する手段として『』をしてしまう。

この時点で方法になってしまう。

『』は自分の幸福を最大化するための生存戦略(と理解しています)。

教師がやるべきことは、集団の問題を解決しようとするのではなく、集団に「安易に一人も見捨てないことは自分にとって得である」ことを信じ、伝える(さらに言えば信じて実行している姿を見せる)ことである。

 

考えれば考えるほど、多様な選択肢が必要だと感じます。

色々ハブを持つことは、子どもたちを救うことにつながる。

 

私は遠回りということで、めげずに生きます。