学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

複数の依存先を持つこと

スシロー事件に始まる最近のSNS炎上を見ていて。

〈動画に撮られている側の人間はいじられキャラのポジションであり、ああでもしないと仲間から外されて生きていけないのではないか〉といった趣旨の意見を見かけた。

そうだとしたら、余計に多様な繋がりを補償することの切実さを感じる。

 

僕が高校生の頃、3年間で話したことのあるクラスメートはそう多くはなかった(もちろん、僕自身の人間関係形成力に起因するところはある)。

一度も話したことのないクラスメートもいた。

なにより、自分が属する集団は固定化されていた。

だからその集団から外されることはとても怖かった。

 

学校を過ごす上で一番長い時間である授業においてコミュニケーションする機会がほとんど無いのであれば、依存先は狭まる。

依存先が狭まれば、その集団での役割は固定化される。

いじられキャラが固定化すると、その集団から離れない限り覆すことは難しい。

そうなってしまったら、無理してでも笑ってないとやってられない。

 

炎上した子も、依存できる先が複数あったら、もしかしたら違ったのかもしれない。