学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

一般化「参加しようか悩んだら、参加してみる方が良いことがある」

概念型カリキュラムの勉強会に参加した。

今回はゲストとしてIB校で教えていらっしゃる方の実践を聞くことができた。

具体的な実践を聞くことで、概念型・IBのカリキュラムの作りかたのイメージを自分なりに持つことができた。

発表を聞きながら、『学び合い』の考え方とどう繋がるのかを考えていた。

概念型・IBのカリキュラムのイメージとしては、今までの授業ではヒドゥンだった理念や価値、育てたい生徒像を前面に出してカリキュラムを設計するイメージ。

というよりも、そこを出発点としてカリキュラムを設計する。

IBだったら「平和を実現する人」を出発点として、では「平和を実現する人」を育てるためにはどのような資質・能力が必要かを考え、その資質・能力を育てるためには各教科でどのような学びをできるかを考える。

具体と抽象を常に往還してカリキュラムを考える。

各教科で学んでいる具体が、どう抽象につながるのかを考える。

その抽象となる部分がいわゆる一般化。

一般化にも抽象度のレベルがある。

そんなイメージ。間違っていたらすみません。

『学び合い』の考え方においては、究極で言えば「幸せに生きる」ということを目標として、これを達成するためにどのような資質・能力が必要かを考え、各教科でどのような学びができるかを考える。

よく本に載っているのは「人格の完成」。

「人格の完成」と教科の時間がどのようにつながっているかを考える。

「一人も見捨てないことは得である」というのも一般化の一つのように思う。

『学び合い』が否定されがちなのは、抽象を達成するための各教科の学びにおいては、コンテンツよりかは学び方に重きを置いていると思われる点ではなかろうか。

概念型やIBにおいては、抽象を達成するために各教科のコンテンツではどのようなことを学ぶのかを重点的に考える。

そのための「概念」だったり「アイデア」があるイメージ。

 

考え方のイメージは一致した。

結局のところ、理念の無い学びは骨抜きの状態なのだ。

どのようなビジョンを持つかが出発点。

ここを先生方でじっくりと話し合うことが学校現場ではもっと重要視される必要があるように思う。

 

とまあここまでつらつら書いてきてなんとなく分かった気になっているが、いかんせん具体化することが非常に苦手なので、分かる人に会いに行って、授業を見に行って、具体を増やしていきたい。