学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

道徳的な読みとは

道徳的な読みとはなにか。

それはテクストの文脈から離れて、状況の文脈のみで語り合っている、空中戦のようなもの。

思うに、教師が「この物語を読んで何かを考えさせたい」と思った時に、こうなりがちな気がする。

いや、もちろんそれを考えることも大事なんだけど、授業の中で問いとして設定し、それを教師宛てに書くとなると、一気に道徳化するのではないかと思う。

その物語を読んで、何を感じ、どう自分の人生に引きつけるかは個人の自由。

 

話を変えて。

何かを解釈する際には、必ずテクストのどこかに引っかかって、そこから何かを感じて解釈しているはず。

だから、「なんとなく」をどれだけ突き詰めて考えるかが必要。

今日の授業では「なんとなく」と言ってしまい、「なんとなく感じたということはどこかで引っ掛かっているはず」と返していただいて言語化に挑戦できた。

 

自分の感覚を言語化することにどれだけ挑戦できるか。

僕は全然苦じゃないんだけど、きっと面倒くさいと思う子もいる。

なぜなんだろう。

言語化することを面倒くさがるのは。