学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

教科の見方・考え方

 8/22(土)に「第2回教科の見方・考え方を身に付ける授業デザイン研究会」に参加した。「そもそも「教科の見方・考え方」とは何か?」から始まり、国語科、商業科、理科、英語科の授業デザインについての提案を検討した。 

 国語科の見方・考え方は「対象と言葉、言葉と言葉の関係を、言葉の意味、働き、使い方等に着目して捉えたり問い直したりして、言葉への自覚を高めること」とされている。これを意識して日々の課題を作ることが大事だ。では、「対象と言葉、言葉と言葉の関係を、言葉の意味、働き、使い方等に着目して捉えたり問い直したりして、言葉への自覚」が高い状態とはどのような状態なのだろう。また、どうやったら「対象と言葉、言葉と言葉の関係を、言葉の意味、働き、使い方等に着目して捉えたり問い直したりして、言葉への自覚」が高い状態になれるのだろう(何ができてれば「対象と言葉、言葉と言葉の関係を、言葉の意味、働き、使い方等に着目して捉えたり問い直したりして、言葉への自覚」が高い状態といえるのだろう)。ここら辺の問題は、「読みの授業研究会」が整理してくれていると個人的には思う。

 僕が今のところイメージしている「対象と言葉、言葉と言葉の関係を、言葉の意味、働き、使い方等に着目して捉えたり問い直したりして、言葉への自覚」が高い状態とは、例えば次のような状態である。

 

助詞一つで悩む(ここの文章は、「私”は”」がいいのか「私”が”」がいいのか)

比喩を考える(直喩を隠喩に変えたらどのような効果の違いがあるだろうか=「あなたは花のようだ」を「あなたは花だ」に変えたらどのような効果の違いがあるだろうか)

 

 以前、授業で言葉の読みを答えさせたときに、「今日」を「きょう」と読むのか、「こんにち」と読むのかで悩んだ生徒がいた。言葉の意味や読みは、文脈によって決まってくるとうことを学べた瞬間だったように思う。

 今回の研究会の中で、「教科の見方・考え方」」は自然と身につく(帰納的に身につく)ものではないのか」という意見があった。僕もなんとなくこれには同意する。「対象と言葉、言葉と言葉の関係を、言葉の意味、働き、使い方等に着目して捉えたり問い直したりして、言葉への自覚」が高い状態とは一言で言うなら「言語感覚が高い状態」ではないだろうか。「言語感覚」はたくさん読むことと書くことによってしか得られないように思う。日々の授業に、たくさん読んで、たくさん書くことを組み込まなければ、「言語感覚」はとうてい身につかないのではないか。