自分はなぜ本を読み、文章を書き、人と話すのか。
それは、ひとえに自らの課題を解決するためだ。
職業柄もあるかもしれない。
だけど、もはや「仕事に必要だから」ではおさまらない。
自分が納得して死ぬために、今の自分ではない自分になりたい。
ミスチルも言っている。
「もっと大きなはずの自分を探す終わりなき旅」なのだ。
これって、探究的な営みなのではないだろうか。
生徒が、本気になって読み、書き、話すときは、自らの課題を解決しようとするときなのではないだろうか(あるいは誰かの課題を一緒に)。
探究的な国語の授業ってどうやったらデザインできるのだろう。
一人一人、自分の抱える課題は違う。
うーむ。