学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

個別最適化

全員が、同じ課題を、同じ時間に行うことの苦しさ。

ある先生がそんなことをおっしゃっていた。

 

僕は、一人一人多様な中で、同じ課題を同じ時間に行わざるを得ないことを乗り越えるために、『』というものが誕生したとも思っていたので、改めて考えさせられる言葉だった。

 

僕も国語の授業をしていて、わからなくなる時がある。

なぜ、この文章を全員が同じペースで読まなければならないのか。

その文章の難易度が合わない人もいるだろうに。

 

読解力を付けるためには、なによりもたくさん読むことが大切だ。

筋トレと同じ。読まなければはじまらない。

では、どんな文章を読むのが一番いいのかというと、自分のレベルと合った文章を読むのがいい。

さらに言えば、読む目的を持つことができれば、モチベーションも高まるし、理解も深まる。

こう考えてくると、本来は読むものは一人一人違うはずだ。

 

もちろん、自分の興味関心とは異なるものを強制的に読まされることの意義もある。

自分の知らない世界を知ることができるからだ。

学んだことの意味は事後的にやってくる。

内田樹が『下流志向』(講談社文庫 2009)の中で「・・・それらのものが何の役に立つのかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならない当の理由だからです。」と述べているように。

 

だから、「読みたいものをただ読めばいい」というのは無責任だよなぁと思う。

けれども、「なんで同じものをよまなきゃならないのかぁ。」とも思う。

 

読むものの個別最適化ということに関しては、「リーディング・ワークショップ」というやり方がある。

とても魅力的で、自分が高校生の時にこれがあったらなぁと思った。

僕がこれに踏み切れないのは、評価の問題があるから(主に総括的評価)。

現実問題テストというものがあり、評定があり、大学入試がある中で、なかなか踏み出せない。

 

つまるところ、個別最適化の評価をどうするか。

これが今のところの長期課題になりそうだ。