内田樹「言葉の生成について」(内田樹の研究室.2018.3.28)を読んでいると、「語義を曖昧なままにして話を始めて、こちらが話し、そちらが聴いているうちに、しだいに言葉の輪郭が整ってくる。合意形成というのは、そういうものです。」という文があった。
この文を読んで、ふと先日あったことを思い出した。
先日ゼミ生に「世界で一番やかましい音」という国語の教材について相談を受けた。
いろいろと話しているうちに、「この物語の事件のきっかけはなにか」という問いについての話になった。
お互いに、きっかけはここなんじゃないか、子どもからはこんな意見が出てくるんじゃないかと話し合っていたのだが、どうもお互いの意見に納得ができない。
「あなたはここからが『きっかけ』だと言うけれど、それは違うと思う。飛躍しているのでは?」「いやいや、そんなことはない」といった会話が何回か行われたあと、なぜこのズレが生まれるのか、ふと立ち止まって考えた。
それは、「きっかけ」という言葉の定義がお互い異なっていたからだった。
「僕は『きっかけ』を〇〇のように定義しているけれど、あなたはもしかして□□の意味で使っていない?」と言うと、相手は「ああ、そうです。そうです。だからか!」
お互いになんだか話が噛み合わないのは、お互いに使っている言葉の定義が違うからという単純な出来事だったのだが、そこに至るまでにはある程度の対話を要した。
ある程度の対話ができたのは、意見が食い違っても、すぐに相手を否定せず、なぜ相手がそう考えるのかを理解しようとお互いにできていたからなのではないかと思う。
相手との考えが違うのは、何となく使っている言葉の定義が違うことが一因だったのだ、ということにお互いが気付けたとき、それぞれの意見をより尊重することができたように思う。
「ではまず『きっかけ』の定義を定めてから話し合おう」では、実りのある対話になっていたかどうか。
とりあえず意見を交わしているうちに『きっかけ』という言葉の輪郭が整っていったのだった。