学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

「弱いロボット」と「朝人を起こす職業」について

今日の朝、現職の有志で集まっている勉強会?に参加した。

そこで、道徳の模擬授業を受けた。

その授業の中で、「弱いロボット」が紹介されていた。

このロボットはゴミ箱の形をしており、落ちているゴミの近くに行って、「モコ」と鳴く。

それを見た人間が「ゴミを入れて欲しいのかな?」と思って落ちているゴミを入れるのだそう。

授業者は「弱いロボット」によって人間の優しい気持ちが引き出されることに違和感を覚えていた。

我々の優しさはロボットに引き出してもらわなければいけないようにらなってしまったのか、と(間違っていたら指摘してください)。

 

僕が「弱いロボット」について思ったこと。

なぜ、人は落ちているゴミを見ただけではあまり拾おうとしないのに、そこに拾って欲しそうに見える「弱いロボット」がいると、拾いたくなってしまうのか。

それは、「求められる」ということが重要なのではないか。

我々は、ゴミが落ちていたら拾った方がいいことは百も承知である。

にもかかわらず大抵の人が拾わないのは、それが誰かに求められていないから(誰に求められているのかが曖昧だから)なのではないか。

「弱いロボット」は明確に求めてくる(と人間が思う仕草をする)し、それに応じれば可愛らしく感謝(と人間が思う仕草を)する。

だからついつい応じてしまう。

また、ゴミを拾うことへの抵抗の一つとして、「あ、あの人良いことしてる」と思われたくないという感情もあるのでは無いだろうか。

少なくとも僕は気にしてしまう。

それが、求められることによって、ある種言い訳ができる。

「僕は自発的に『良いこと』をしようとしてゴミを拾っているのではありません。このロボットに求められたから仕方なく応じてあげているのです」といったように。

つまり、人に良い行いをさせようと思ったら、「可愛らしく、明確に求められている」ことを実感できるような機能が必要なのかも。

 

模擬授業の初めで、朝人を起こす職業が昔あったことを知った。

その上で、「現在はその機能を目覚まし時計が代替しているが、その上であなたはこの職業の人に起こしてもらうことを頼もうと思うか」と質問された。

僕はお金があるなら頼みたいと思った(ちなみにそう思ったのはそこにいた人の中で僕だけ)。

なぜか。

それは、目覚ましでは起きられないから。

もしもその人に起こしてもらって、一言二言交わすのであれば、僕はきっと起きられる(ホントかいな)。

なぜか。

それは、その人との関係が起きるモチベーションになるから。

目覚まし時計は「起こす」という「機能」はあるが、そこに「関係」は存在しない。

人間は、「機能」だけでは満足できない、動かないのではないか?

そこに「関係」がなければ。

 

書くことあったわ。