学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

開発的生徒指導

自分の教育は生徒をお客さんにしていないか。

「開発的生徒指導」について書かれたものを読みながらそう考えた。

 

こちらがお膳立てして、生徒はそれに従うだけ(従わせるだけ)。

これでは何も学ばせられない。学ばない。

生徒を当事者にしなければ、何も育てられない。育たない。

いかにして、生徒が当事者になる機会を仕組むか。

生徒に任せるだけの準備をこちらが徹底的に考えられるか。

 

「開発的生徒指導いいなぁ。面白そうだなぁ。」と思ったが、これは僕一人が思っていても実らない。

学校をあげて取り組まなければならないもの。

より大きなことを為すには、一人ではできない。

僕は実力も経験も乏しい。

だから、誰かとやる必要がある。

つまり、僕が「一緒になってやってもらえる人」にならなければならない。

 

こんなことを同僚の先生と話していたら、「こういったことを面白そうと思えるのは、先生に余裕があるからですよ。」と。(嫌味ではない)

なるほど、確かに。と思う。

初任や2年目の頃だったら、思わなかっただろうな。

「そんなこと知らん。とにかく明日を乗り切る方々を教えろ。」としか思わなかっただろう。

余裕がなければ、面白いと思うこともないのだ。

 

これって結構重要なことだと思う。

先生に余裕がなくなればなくなるほど、「こういうことをやってみたい。」という気持ちは萎んでいくのではないか。

そうなると、終焉ですね。