学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

なぜ学ぶのか

 先日Zoomで勉強会をした時のことを今更ながら振り返る。

 僕は高校の国語の教員であるが、ある小学校の先生から「なぜ国語を勉強するのか、国語を勉強する意味は何か、生徒にどう伝えますか。」と聞かれた。僕はその時に「本を読むと人生が豊かになる、ということをとにかく生徒に伝える。自分が読んで面白いと思った本の内容を紙にまとめて、生徒に配る」と答えた。我ながらなんとも単細胞的な答えだと思う。

 僕は一時期、「なぜ、国語を勉強しなければならないのか」に本気で悩んだことがある(今も考えていないわけではないが、当時よりは答えが見えている)。そんなときにたどり着いたのは「リーディング・ワークショップ」と「ライティング・ワークショップ」だった。これらは、より良い「読み手・書き手」になることを目的とした授業だ。特に僕は「リーディング・ワークショップ」に惹かれた。

 より良い「読み手」になるためには、とにかくたくさん読むことが大事である。また、熱中して読むことが大事で、そのために自分に適した本を選ぶことが大事になる。この考え方は非常に共感できたし、実践させてもらったときに生徒が読書を好きになっていくのを感じることができた。普通の国語の授業は自分で読む本を選ぶことができないし、実際に「読む」ことをする時間は少ない。国語の授業で読書が好きになる人間は果たしているのだろうかと、いわゆる普通の国語の授業に懐疑的だった。当時は国語の授業の目的を「生徒が生涯にわたって読書する人になる」ことだと考えていた。今でも口を酸っぱくして生徒に読書をゴリ押ししているのはこう言った考え方が僕の根底にあるからだ。

 

 長々書いたが、ここからが本題。勉強会に参加されていたある高校の先生はこう答えた。

 「国語に限った話ではなく、学ぶということは、できなかったことができるようになること、分からなかったことが分かるようになることである。生徒は大人になったときに授業の内容は忘れてしまうかもしれないが、頭を使って何かができるようになった、分かるようになった体験は残る。だから学ぶことは本来楽しいことなんだ。推薦入試などで早々に受験が終わってしまって勉強する意義を失いかけている生徒には、『これで、何の気兼ねもなく悠々と勉強できるね。』と言うよ。」

 これには思わず唸ってしまった。思い返せば、受験勉強が辛かったのは僕が受験のためのレベルでしか勉強できていなかったからだ。今自分が学び続けていられるのは、他でもない自分のために、分からなかったことが分かる喜びを噛みしめられるからだ。

 

「なぜ勉強するのか。」

 純粋に楽しいからである。この呆れるほど単純な答えを、生徒と共有したい。