学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

文学の読み

 上教大の授業に参加させていただいた。授業デザインの授業で、中島敦山月記」を扱った。話し合いの中で「道徳的な読み」というものが出た。改めて、自分自身の文学教育に対する思いを考えた。

 僕は文学部出身で、大学時代はテクスト論を学んだ。だから、作家論的な考え方をやたらと忌避していたし、いわゆる「道徳的な読み」もつまらないものと思っていた(今でもそうだ)。だが、教員になって授業をしてみて思ったのは、結局のところ「道徳的な読み」にせよ「道徳的でない読み」にせよ、教師が言ってしまったらどちらも同じだけ価値がないということだ。こちらがいくら論文を読んで「道徳的でない読み」を自分なりに持ってそれを授業したとしても、導いてしまっては元も子もない。子供からしたら「ふーん、で?」で終わりである。最終的には子どもがどう読んだのかが大事であって、その子にはその子のレベルの読みがあるということを大事にすべきだと改めて思った。

 僕なりの文学の読みのレベルだが、第一は、物語内容が読めること。これは「何が物語られているか」「何が事件か」のレベル。「羅生門」であれば「生きるか死ぬか悩んでいた下人が羅生門の上で老婆と出会い、最終的に老婆の着物を引剥ぎする」(非常にざっくばらんですいません)というのが物語内容のレベル。僕の思う「道徳的な読み」というのは、物語の内容だけを読んで「生きるための悪は仕方がないよね。」とか「人は誰でも追い詰められたらエゴイスティックになるよね。」とまとめたもののことだ。

 第二は、物語がどう語られているのか、登場人物がどう語られているかを読めること。これに関しては、偉そうにごちゃごちゃ言っている僕自身あまり授業に落とし込めていない。「羅生門」であれば「下人」や「老婆」がどう語られているかということ。「羅生門」はよく「極限状態の人間の心理を描いた作品」と言われるが、「下人」の語られ方を読むと、それほど極限状態ではないと読める。もちろん災害が続いた京にいて職を失ってしまった「下人」に、明日への不安がなかったとは言えない。しかし、そもそも羅生門にのぼった理由は「そこでともかくも、夜を明かそうと思ったから」である。下人はまだ問題を先伸ばしにできる状態と読める。一方で「老婆」の語られ方を読むと「猿」「鶏」「肉食鳥」「蟇」といったように動物に喩えられて語られている。より切羽詰まった動物的な人間と読める。

 ここまで読むと、次に「どうして下人は老婆の着物を引剥ぎしたのか」という問いに進める。生きるためとは言いながら、それほど切羽詰まってはいない下人。羅生門の上には他にも着物を着た死骸はあるのに、なぜ老婆の着物を引剥ぎしたのか。こんなことを考えると面白いんじゃないかなあと思う。

 言い訳のようだが、僕は教員になってから今年で5年目だが、未だ「山月記」を授業したことがない。だから、あれやこれやと考えてはいるが、まだ実際の授業に落とし込めていない。「山月記」難しいなあ。どうしましょ。

 

 久しぶりに教材について話すことができて、純粋に楽しかったし勉強にもなった。またよろしくおねがします。