学而不思則罔、思而不学則殆。

高校国語科教員が何か書きます。

採点業務

朝出勤すると「昨日頑張ったそうじゃないか。無理しすぎるなよ」と声をかけてもらえる。

ありがたや〜ありがたや〜。

 

テストの採点を「採点ナビ」なるもので行っているが捗る捗る。

紙を捲る手間も、ペンを動かす動作もない。

一括で選択できる。

選択肢問題は自動で採点してくれる。

点数は設定しているので計算しなくて済む。

何よりも生徒の解答が画面に一覧で出るのが良い。

アナログ採点には戻れません。

 

 

久々に

今日は珍しく20時半ごろ退勤。

私の力量では、本来はこのぐらいまでかかるんだろうな。

いろいろと間に合ってないことばかり。

申し訳ない。

特別なことをやろうとせずに、できることを堅実に。

いきなり理想を求めて自己肯定感を下げるよりも、できることをちょっとずつ、されどしっかりと意図を持ってやる方のがきっとよい。

考え方

『学び合い』の考え方をもとに、意図を持って教育活動をする。

『学び合い』をするのではない。

ということが、かなり腑に落ちてきている今日この頃。

2年間、大して研究もしなかったし、やり残したことはあったし、上手くできなかったこともたくさんあったが、あの集団に浸れたことは確かな財産。

自己選択・自己決定・自己責任は、失敗を前提としているデザインのように思う。

その時はうまくいかないかもしれない。

綺麗にまとまらないかもしれない。

だからこそ、後に残るものがある。

次に活かす

自分の弱点は「思考・判断・表現」。

頼れる人はたくさんいるのだから、たくさんアウトプットするぞ。

今日は2時間あった総合的な探究の時間の1時間目の途中で「ああ、こうすればもっと面白かったのに!」という反省が生じた。

ただこなすのではなくて、いかにおもしろくするか。

notionにメモったし、学年部の先生方には共有したので次回に活かす。

教員も学校のリソースを意識しないとね。

班と意図

『学び合い』では班を作らないのがセオリーだが、さてその意図はなんだろうか、と考える。

学習の効率を上げるため、生徒の選択肢を解放するため、等あるだろう。

が、陥りやすいというか、私が陥った事態に、班を作ることは、『学び合い』のセオリーに反する。班を作らないことは理屈も考え方も筋が通っている。なのになんか上手くない。といったものがあるように思う。

ふと今日思ったことだが、問題は意図なのだと思う。上手く行きません、どうしたらいいですか、という問いには、意図はあるんだろうか。

今回は班で考えてみたが、何にでも当てはまるね。

何を今更こんな当たり前のことを俺は…と思いかけたが、自分をディスカウントしないこととする。

アクティブブレインで学んだではないか。

私は私として一つ成長したのだからそれでいいのだ。