浜田寿美男の『「私」をめぐる冒険』を読んだ。
この本の中に、心に残った部分があった。
脳性マヒの学生がいた。その学生は発音がはっきりしなかった。彼は、養護学校にいる間に発音訓練を受け続けたのにも関わらず、自分の発音がとてもはっきりしたとはとても思えないと思っていた。そんな彼が大学に入ると変わることになる。
入学した当初、彼は発音がはっきりしないという負い目から、あまり人とつきあおうとしなかったようです。楽しい生活を夢見て入った大学ですから、遊びたいという気持はあったのですが、どうにも引いてしまって、ひとりポツネンとしている時期が続いたわけです。しかしどうにか思い直し 、思い切ってほかの学生たちの輪のなかに入っていこうとするようになります。
でも、当然ながら、最初は上手く話すことができません。しかし、周りの人は、わからないからといって、彼を除け者にしようとするわけではありません。普通は、わからないから、もっと聞こうとするわけです。で、繰り返し繰り返し聞かれているうちに、はっきり話さなければとがんばるようになり、二、三ヶ月もたつと、ほとんどつうじるようになってきた。
(中略)
彼は、大学で友達の輪の中に入るとき、訓練を受け直したわけではありません。徒手空拳で友人のなかに入っていき、自分の発音能力の範囲内で最大限の努力を払い、エッチラオッチラ頑張っているうちに、結果的にコミュニケーションの不都合がなくなったということです。
このエピソードを読んで分かったこと。
1つ目は、周りの友人の暖かさ。脳性マヒの学生がうまく話せないからと言って、彼を見捨てななかった。これは、脳性マヒの学生にとって有益なだけではなく、周りの友人たちにとっても有益なことだろう。なぜなら、困った時に助けてもらえると確信を持てる集団になったのだから。
2つ目は、学びが状況に埋め込まれているということ。養護学校で長年訓練しても改善しなかった発音が、友人とコミュニケーションをとろうとすることで改善された。
話は変わるが、高等学校でも通級指導が導入された。コミュニケーションが苦手な生徒が放課後にSST等を受ける。僕は通級を全く意味のないものとは思わない。しかし、どれだけの効果があるのかは疑問に思う。
理由1
マンパワーを考えると、通級で対応できるのはせいぜい2人が限界である。果たして、コミュニケーションで悩んでいる人は2人以下だろうか。多かれ少なかれ、多くの人が悩んでいるだろう。
理由2
脳性マヒの学生さんのエピソードにあるように、通級指導でコミュニケーションの訓練をしても、実際にクラスの中でコミュニケーションをうまくとれるとは限らない。これは、もちろんうまくいく場合もある。だから、僕は通級指導が全く意味のないものだとは思わない。しかし、通級で先生ととるコミュニケーションと、クラスの中でクラスメートととるコミュニケーションは、種類が異なるのではないか。クラスメートとのコミュニケーションの質は、クラスメートとのコミュニケーションでしか変わらないのではないか。
コミュニケーション能力を育てるためには、コミュニケーション能力を高める訓練を行うだけでは意味がない。実際に必要に駆られたコミュニケーションを繰り返し繰り返し行ううちに、ゆっくりと育つものではないだろうか。
学校において生徒が最も長く過ごす時間は授業だ。だからこそ、授業でコミュニケーションの時間を多くとらなければならない。